- 練馬区は1947年8月に板橋区から独立した、23区でもっとも新しい区
- 行政の境界線は、住民の声と法的手続きを通じて引かれた政治の産物
- 「練馬区民」という一体感は、線引きの後から想像によって作られてきた
「23区」は最初から23だったわけではありません
東京23区。当たり前のようにそう呼んでいますが、実はこの「23」という数字は、最初からそうだったわけではありません。
1947年3月、東京の区は再編されて22区になりました。そして同じ年の8月1日、板橋区から練馬区が独立し、ようやく「23区」がそろいました。つまり練馬区は、23区の中でいちばん新しい、いちばん若い区なのです。
今日は、この「区が分かれる」という出来事を入り口に、「境界を引く」とはどういうことかを考えてみます。
結論:行政の境界線は自然にあるものではなく、人が政治的に引いたものです
地図を見ていると、区や市の境界線は、まるで最初からそこにあったかのように見えます。でも実際には、すべての境界線は、誰かがどこかの時点で、決断をもって引いたものです。
練馬区の誕生も、そうでした。当時の板橋区は面積が広く、練馬地域の住民からは「区役所が遠い」「行政サービスが行き届かない」といった不満があったと伝えられています。地域の運動と行政の判断が重なり、分離・独立に至りました。生活の実感(役所が遠い、声が届かない)が、地図の線を引き直させたのです。
区の境界は、法律ではどう扱われているのか
現在の仕組みを簡単に説明します。
東京23区は、法律上「特別区」と呼ばれる他の市町村とは少し違う存在です。特別区の設置や境界の変更には、法律に基づく手続きが必要で、住民や議会の意思、都や国の関与が絡む、かなり大がかりなプロセスになります。
つまり、「区を分ける」「区の境界を変える」というのは、単なる線引きの事務作業ではなく、そこに住む人たちの代表制と自治のあり方を問い直す政治的な出来事なのです。
近年でいえば、大阪で「都構想」の住民投票が行われたことを覚えている方も多いと思います。あれもまさに、「行政の単位をどう区切るか」を住民自身が決めようとした例でした。区割りの問題は、決して過去の話ではありません。
「境界を引くこと」は政治の本質、という考え方
ここで少しだけ、私の学生時代の関心に引きつけた話をさせてください。
政治思想の世界には、「政治の本質は、境界を引くこと、つまり『われわれ』と『それ以外』を区別することにある」と論じた思想家たちがいます。20世紀ドイツの法学者カール・シュミットはその代表格ですし、私が卒業論文で扱ったシャンタル・ムフという政治学者も、この問題を引き受けて「対立や線引きは消せない。だからこそ、それを暴力ではなく民主的な競い合いの形に飼いならすことが大事だ」と論じました。
どこで線を引いても、線の内側と外側が生まれます。同じ道路の右側と左側で、通う学校が変わり、受けられる行政サービスが変わり、払う税金の使い道が変わる。境界線は便宜的なものにすぎないのに、いったん引かれると、人々の生活と帰属意識を現実に形づくっていく。練馬区民という「われわれ」も、1947年のあの線引きが作り出したものともいえるのです。
大事なのは、線引きに絶対の正解はない、ということです。だからこそ、線を引き直したいという声が上がったとき、それを力ずくで抑え込むのでも、無視するのでもなく、手続きと議論の土俵に乗せる仕組み。それが地方自治の法制度なのだと思います。練馬区の誕生は、その仕組みがきちんと機能した例と言えるかもしれません。
「練馬区民」という想像の共同体
線が引かれると「われわれ」が生まれると書きました。でも、考えてみると不思議な話です。練馬区には約74万人が住んでいます。私は、そのほとんどの人に会ったことがありません。それなのに、「練馬区民」という仲間意識のようなものは、確かに存在します。これはいったい何なのでしょうか。
この不思議さを正面から論じた政治学者ベネディクト・アンダーソンは、ネーション(国民・民族)を「想像された政治的共同体」と捉えました。どれほど小さなネーションでも、構成員の大多数は互いに会うことも、知り合うこともない。それでも人々の心の中には、同じ共同体に属しているというイメージが存在します。こうした想像の成立を支えた重要な条件が、出版物を大量に流通させた「出版資本主義」であり、とりわけ小説と新聞でした。小説や新聞は、離れた場所にいる無数の人々や出来事が、暦で測られる同じ時間の中を同時に進んでいるという感覚を生み出しました。また、新聞を毎日読む行為は、匿名の多数の読者も同じころに同じ行為をしているという意識をもたらし、見知らぬ人々を同じネーションの成員として想像することを可能にしました。
この議論は国家について語ったものですが、私は、練馬区というスケールでもきれいに当てはまると思っています。
まず、順序に注目してください。1947年、先に「練馬区民の共同体」が完成していて、それに合わせて線が引かれたのではありません。分離を求める住民運動という芽はあったにせよ、線が引かれ、区役所ができ、「練馬区」という名前の器が用意されたことで、そこから74万人分の「われわれ」が本格的に想像され始めたのです。共同体が線を引くのではなく、線が共同体を生む。この逆転こそ、ベネディクト・アンダーソンの議論の核心です。
そして、その想像はいまも毎日、再生産されています。各家庭に届く区報、区立の学校、選挙のたびに届く投票所入場券、区のキャラクター、「アニメ発祥の地」や練馬大根といった共有の物語。ベネディクト・アンダーソンが新聞に見出した役割を、区のスケールでは、こうした行政と地域のメディアが果たしているわけです。極端に言えば、「練馬って何もないよね」という例の自虐でさえ、区民同士が笑い合える共有の物語として、共同体の想像に一役買っているのかもしれません。
誤解のないように付け加えると、「想像の」共同体とは「ニセモノの」共同体という意味ではありません。アンダーソン自身が強調したのは、むしろ逆のことです。ほとんどすべての共同体は想像によって支えられているのであって、問われるべきは本物か偽物かではなく、どのようなスタイルで想像されているかなのだと。線引きから80年足らずで、独自の物語と愛着を持つ「練馬区民」が現に存在している。これは、想像の力の実例だと私は思います。
法律家として付け加えるなら、この想像を日々支えているのは、実は法制度です。区役所も、区報も、学校区も、選挙も、すべて地方自治の法制度が作った仕組みです。法は、権利や義務を定めるだけでなく、「われわれ」という想像が宿るための器を用意する仕事もしている。練馬区の80年は、そのことの証明のように見えます。
まとめ
- 練馬区は1947年8月に板橋区から独立した、23区でもっとも新しい区です
- 行政の境界線は自然物ではなく、住民の声と法的手続きを通じて引かれた政治の産物です
- 「練馬区民」という一体感は、線引きの後から想像によって作られ、区報や学校といった仕組みを通じていまも再生産されている「想像の共同体」です
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